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看護師なら知っておきたい「薬の歴史」

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日本人の薬の歴史

日本人の薬の歴史

時代とともに変化してきた日本の薬

看護師が新薬開発に携わるための予備知識として、薬の歴史について学びましょう。平安時代の都には、東市司(西本願寺辺り)と西市司(西七条市部町辺り)という2つの市がありました。東市には「薬廛(やくてん)」と呼ばれる薬商があり、国内外のさまざまな薬が取り扱われていました。国産の薬草類ほか、インドや宋からの輸入薬もありました。この時代に薬を買うことができたのは上流階級の人のみで、庶民は自分で見つけた草を煎じたり呪術に頼ったりしていました。
鎌倉時代には、日本臨済宗の元祖栄西が宋で茶の種を譲り受け、日本に戻って茶の持つ薬用効果や調整方法、服用方法などを「喫茶養生記」の中に記しています。二日酔いで苦しんでいる将軍源実朝に栄西が茶を勧めたとの話も伝えられています。
室町時代になると、庶民も薬を手に入れることができるようになっていきました。中国の処方集「太医局方(たいいきょくほう)」は、庶民の救済を目的としたものでした。「和剤局方(わざいきょくほう)」はベースとなっている太医局方からさらに有用性を高めたものです。これらの処方集が登場したことによって、薬の専門知識がない人でも簡単に薬を手にすることができるようになりました。奈良の西大寺や東大寺正倉院などの寺院が秘伝の薬を製造し、販売で得た利益で寺院を立て直すなどの動きもありました。
安土桃山時代には、キリスト教とともに「南蛮外科」が伝来しました。切り傷などは蒸留酒で消毒してからヤシ油を塗って縫合し、再度蒸留酒で消毒して卵白とヤシ油でできた軟膏を塗るという方法で手当てされました。
江戸時代には、日本の各地で薬が売られるようになりました。薬を買う際には、小さな引き出しの中に薬が入った「百味箪笥(ひゃくみだんす)から症状に応じて選んだ薬が調合されました。現在でも広く使われている小柴胡湯や葛根湯ほか数々の漢方薬が、江戸時代にはすでに処方されていました。

歴史上の人物と薬

織田信長は、ポルトガルの宣教師の勧めに従って伊吹山に約50万平方メートルの薬草園を作らせました。広大な薬草園で栽培されていた西洋の薬草は3,000種にも及んだといわれていますが、正確な記録としては何も残っていません。それでも伊吹山に薬草園があったことが確信的に伝えられているのは、西洋原産の薬草が伊吹山に自生していることが根拠となっています。医師としての能力も高かった徳川家康は薬に大変興味があり、この時代から急速に医学・薬学が発展していきました。水戸黄門で知られている光圀公は、「救民妙薬」という本を作らせて庶民が薬を手にしやすいよう取り計らっています。テレビドラマでもおなじみの「印籠」は、実は薬入れとして使用されていたものでした。

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